「17才のキミへ」 

「17才のキミへ」 

 オレは重たい左足を引きずり、一歩一歩、確かめるように瓦礫の街を進んだ。松葉杖は、その日もオレの舵取りをしながら、しっかりと体を支えてくれた。二十年来の相棒だ。

 2002年6月、オレは、パレスチナ自治区ガザにいた。日本では、ちょうど、日韓共同開催のワールドカップ・サッカーで盛り上がっている頃だった。

 紛争地域に来たのは、パレスチナ代表サッカーチームの取材のためだった。国家として国連には認められていないパレスチナだが、国際サッカー連盟(FIFA)には認められている。国の代表としてワールドカップに出場することができるのだ。国民にとって、代表サッカーチームは誇りであり希望なのだ。

 ここでもオレはあっという間に子供たちに囲まれた。小学生ぐらいだろうか。ざっと見渡しても50人ぐらいはいる。オレが降り立ったのは、ガザ北部にあるジャバリア難民キャンプだった。

 松葉杖をついてカメラをぶら下げたオレを見つけると、彼らは勢いよく集まってきて笑顔を振りまいた。しかも必ず指を立ててVサインをした。

「写真を撮るときにVサインでピースするのは世界共通だな。日本じゃ、オトナだってやるよ。カニみたいにね」

 ガザで雇った英語が堪能なアラブ人通訳にそう話すと、オレの戯言を一笑に付した。

「あれは、ピース(平和)じゃなくて、ビクトリー(勝利)のVだ。この街じゃ、子供たちだって戦ってるんだ」

 必死にシャッターを切っていると、数名の男の子たちが、オレのズボンの裾を興奮してまくり上げようとしているのに気づいた。引きずっている足を見たがっているのだ。ちょっと待てよ、おい、おい。身振り手振りで拒否したがうまく伝わらない。助けを求めようと視線を通訳に向けると、大笑いをしてこちらを見ている。

「子供たちは、オマエの事を英雄だと思っているんだ」

「英雄だって? なんだそれ。なぜ英雄なんだ」

「松葉杖をついているだろう。イスラエル兵に足を撃たれたと思っているのさ」

 なるほど、イスラエル軍との戦いで負傷したインティファーダ(抵抗運動)の英雄ってわけか。しかし…。

 子供たちは、キラキラとした瞳でレンズの前に群がり、写真を撮ってくれとせがむ。早く本当のことを伝えろと通訳に目で合図したが、アメリカ人のような派手なしぐさで両手を広げ、まあいいじゃないかとオレに伝えた。

 「ジャパニッソ(日本人)!」誰から聞いたのか、ひとりの少年がオレに向かって叫んだ。すると、「ジャパニッソ!」、「ジャパニッソ!」子供たちの合唱が始まった。天まで突き抜けるような大声がこだまする。太陽がもうすぐ頭上から熱を放射しようという時間になっていた。難民キャンプの路地裏では、そこには似つかわしくない笑顔が溢れていた。

 英雄か…、あの頃の自分が知ったらどう思うだろう。

<1982年3月28日、晴れ。朝、目が覚めて起き上がろうとしたら、体が動かないのでびっくりした。お父さんとお母さんとこれからのことを何回となく話し合った>

 これは17才の時に書いた日記。正確には、オレの言葉を母が書き留めたもの。この時のオレは、日記なんて書ける状態ではなかった。何しろ身体に付いている立派な手足が、電池切れのロボットのように動かなくなっていたのだから。この日記の前日、オレはラグビーの練習中に負傷をし、救急車で病院に運ばれた。

 ラグビーが全てだった。ラグビーがやりたくて、実家から、電車で一時間かかる学区外の栃木県立佐野高校に入学した。運よく、リザーブ選手ながら一年生から全国大会に出場。二年生では、高校ラガーマン憧れの地「花園」で、正選手として出場した。ポジションは、左プロップ。スクラムを組む縁の下の力持ちだった。

 この年の春休み、主将になったばかりの石井勝尉(現、佐野高校教諭)と副将のオレは、高校日本代表候補の登竜門となる合宿に呼ばれた。石井は、超ロングキックの司令塔として、すでに高校ラグビー界で有名になっていた。

 合宿二日目、スクラムの練習中に、相手とのタイミングが合わず、最前列にいたオレは、地面に頭から落ちた。その瞬間、後ろから押している選手たちの力が、無理な体勢でいるオレの首にすべてかかり、逃げ場を失った。どうやら、その後は気を失ったようだ。ヤカンで頭に水をかけてもらい、目を覚ました時、うつぶせに倒れた状態だった。

「カラダがありません。救急車を呼んでください」

 これがオレの発した第一声だった。

「頚椎損傷だ。首だ、首をやったんだ。動かすなよ」

 コーチが大声で皆に指示をしてくれた。とにかく息が苦しかった。このまま死ぬのか。水に濡れた芝生と土の匂いが、まだ生きている事を知らせてくれた。

 救急車で運ばれたのは群馬大学付属病院。若い医師に最初に言われたのは、「一生車椅子の生活を覚悟してほしい」という絶望的な言葉だった。もちろん、そんな馬鹿げた話は受け入れられなかった。「早く練習に戻らなきゃいけないんだ」、手も足も動かないオレは、大声でわめき散らした。

 首から下の感覚が全くなく、頭だけがベッドの上に存在している状態。自分でも生きているのが不思議だった。意識は以前と同じようにはっきりとしている。しかし、どんなに苦しくても逃げ出すことさえできない。悪夢以外の何ものでもなかった。自分に残された選択肢は2つしかなかった。それは、舌を噛み切って死ぬか、生きるか。

「必ず治る」と言い、感覚のない手足を毎日マッサージしてくれた父、悲しみを見せぬよういつも明るく笑顔で看病してくれた母、いつも心配そうに顔を覗き込む弟と妹、「全国大会の入場行進には必ず出場しろよ」と励まし続けてくれたラグビーの仲間たち、学校の先生方、多くの人々に囲まれて、どうにか生きていた。

 そしてオレは「生きること」を選んだ。どんなことがあっても生き続けよう。そしてもう一度、必ずラグビーをやるんだ。その希望がオレの心を強く支えていた。

 3年後の1985年11月23日、オレは国立競技場のスタンドいた。大学ラグビー伝統の一戦、早慶戦を観戦していたのだ。 翌朝の日刊スポーツにこんな見出しが大きく踊った。

<感激したよ石井(早大SO)!  超満員6万2000人の中に佐野高校時代のチームメート吉田クンがいた」>

 石井は早稲田大学に進学し、一年生からレギュラーの座をつかみ活躍していた。

<一人の松葉ヅエの青年が身を震わせて早大の勝利に酔った。SO石井と、栃木・佐野高でチームを組んだ吉田茂樹君(21)だ。「石井!  お前は優勝へのトライを目指せ。オレは人生のトライにチャレンジだ」。ノーサイドの瞬間、立ち上がってそう叫んでいた。熱い友情のきずなで結ばれている> (日刊スポーツ)

 怪我から3年以上の月日が流れていた。こんなカッコいい台詞をとっさに言えるはずはないが、気持ちとしては間違いではない。石井の活躍はオレの心の支えとなっていた。

 必死のリハビリでどうにか松葉杖で歩けるようになり、入場行進にこそ出場できなかったが、大阪で全国大会を観戦することができた。さらに翌年、高校に復学し、どうにか卒業もさせてもらった。小さな目標を少しずつクリアし、確実に前進していた。見守ってくれている人々も、「吉田は強い精神力で回復した」と喜んでくれた。しかし、自分にとっては精神的に最も辛い時期だった。「もう二度とラグビーはできない」、この現実を受け入れ、新しい希望を自分自身で探し出さなければならない時期にきていたのだ。

 石井は「がんばれ」という励ましを、一度もオレに言ったことがなかった。しかし時々、遠征先から絵はがきを送ってくれた。たいしたことは書いてない。日本代表に選ばれ、イングランドと対戦する前日には、「今、イギリスにいます。明日、試合です。がんばります」とそれだけ。お見舞いにきても、最後に握手をするだけで、一言も話さない無骨な男だ。それだけに、石井からの絵はがきは、どんな励ましの言葉よりも心に染みた。

 1987年春、石井が決めた就職先は、栃木県の教員だった。スター選手だった石井には、社会人ラグビーからたくさんの誘いがあったが、そのすべてを断った。教員になることは、日本代表のラグビー選手として一線を退くことを意味した。まだ23才。ファンの一人でもあるオレの「なぜ?」の問いに、石井はこう答えた。

「オレの原点は高校ラグビーなんだ。オレたちが過ごした高校時代のような体験を子ども達にもしてもらいたい」

 ラグビーをやるという夢にしがみつき、次の一歩を踏み出せない自分に、「お前にもきっと新しい道が見つかるさ」、と石井が言ってくれているような気がした。

 2012年5月15日、オレは佐野高校の創立記念式典の壇上に立っていた。

 「今日は皆さんの先輩でフォトジャーナリストのシギー吉田さんに来て頂きました」

 体育館に響き渡る大声で、オレを紹介をしてくれたのは、司会の石井だった。教員になって25年、石井はこの年からようやく母校のラグビー部監督となった。オレは90年代に米国の大学を卒業し、この仕事に就いた。写真を始めたきっかけは、ラグビーの写真を撮り始めたこと。写真を撮ることで、仲間と試合に出ている気分になれた。

 講演のタイトルは、「逆境に打ち克て ~新しい日常を取り戻す力~」。この言葉は、当時のラグビー部監督、粂川茂夫先生の座右の酩。いつも心の中で大切にしてきた。

 壇上に上がると、800人の生徒たちの顔が一斉にこちらを向いた。すると17才の石井と自分がその中にいるような気がして、なんだか嬉しくなった。

「30年も経ったけど、あの時と変わらず、オレたちは楽しくやっているよ」、難しい話ではなく、自分の言葉で、17才の自分たちにそんなことを伝えよう。そう思って、用意した原稿をポケットにねじ込んだ。

「えーっと、石井は、今は怖い体育教師だと思うけど、オレたち、昼休みに教室で焼き肉をやって怒られてさ。この体育館に正座させられたことがあってね…」

 どうでもいい昔話を友人にするように話し始めると、生徒たちは大喜びしてくれた。ラグビーがすべてだったあの頃の想い、恋愛、苦労した試験勉強、そんな昔話は、今、ここにいる生徒たちの日常と間違いなく繋がっていた。そのかけがいのない日常を、ある日突然、怪我によって失ったら、どんなに悔しいか。生徒たちがそのことをできるだけ身近に感じてくれるように話しかけた。

 ある日突然失った日常の話は、戦闘という暴力によって失うパレスチナの日常や、津波や原発事故によって失った被災地の人々の日常へと繋がっていった。

「震災後、家を流され、家族を失った人々は、避難所で協力して苦難を乗り越えていった。マスコミも連日、被災地のことを報道し、日本中、いや世界中が被災地を応援した。ボクの怪我をした時と同じで、最初はとにかく必死に生きるしかなかった。悲しいとか苦しいとか感じる暇もない。辛いのは、一年を過ぎたころから。失ったものを現実として受け入れ、新しい希望を探さなければならない。みなに忘れ去られているんじゃないかという寂しさや焦りも感じる」

 自分の経験を交えて、そんな逆境にいる時こそ、同じ時代を一緒に生きる友の存在が大切なんだ、と伝えた。

 最後に、川岸という高校二年の時の同級生が、数年前、インターネットに書き込んでくれた文章を紹介した。川岸はラグビー部ではなく、ただのクラスメート。話をしたこともほとんどなく、顔も思い出せなかった。

<高校2年から3年になる春休み。突然、緊急召集の電話が高校の担任からあった。「ヨシダが合宿中、スクラムが崩れ、重症を負った、たぶんもう歩けない…」。クラスの男たちが大泣きしていた。ヤツは、大きく強く、しかし静かな、努力の男だった。なのに…。それが出来る男だったから、人一倍努力し力強く前進してたんじゃないのか。我らが高校の、どんな強豪もじわじわと押し返す無骨な重量級フォワードのように。それがこの結果かよ…。私はそのとき、努力することそのものに懐疑的になった。しかし、20数年ぶりに偶然ネットで邂逅したその男は、そんな私の軟弱な考えを、自らの不屈の人生そのもので断固否定してみせていた。20数年後のその男は、あの時と変わらず、いやそれ以上にバカでかい男だった。涙が、出た>

 この文章を生徒たちに紹介したのは、大切な宝物は、今、何気なく過ごしている日常の中に埋もれているという事を伝えたかったからだ。クラス中の男たちが泣いてくれたのも、川岸がそんな風に思ってくれていたのも、知らなかった。気づかないだけで、友と呼べる仲間は、いつも身近にいる。それが学生時代なのだ。

 講演後、ツイッターやフェイスブックを通して、30名以上の若い友人ができた。後輩たちは、彼らの日常を呟き、ずいぶんと年をとった17才のオレに話しかけてくれる。

 あの頃、17才だった友へ、ずいぶんと心配をかけたね、本当にありがとう。これからも一緒に年をとろう。

そして17才のオレへ、心配する事はない。オマエの人生は、ずいぶんと楽しいものだ。結婚して、7才になる息子もいる。自由に世界中を飛び回り、たくさんの友を得て、故郷には宝物がある。迷わず前に進むといい。

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